【ギャラリー】高精細画像で甦る日本映画のルーツ
写真材料商の小西本店(後に小西六写真工業、現コニカミノルタ)が「活動写真器械の到着」という見出しで映画カメラの広告を雑誌に掲載したのは1897(明治30)年10月のこと。この機械はイギリスのバクスター&レイ社製であったとされる。
そして、同店の店員だった浅野四郎は到着した機械の扱いを任され、日本人としては初めて、映画フィルムの撮影・現像・焼付に成功したと言われている。また、小西本店の顧客であった写真師の柴田常吉もいち早く映画の撮影に着手した。当時活動写真の興行で成功を収めていた広目屋がこれに目をつけ、いよいよ東京の本郷中央会堂や歌舞伎座などで日本製活動写真の興行に乗り出したのは1899(明治32)年6月であった。これが日本映画の最初の公開とみなされている。
日本最初の映画カメラマンたちが撮影したのは、日本橋や浅草などの名所や、芸者の手踊、手品や寸劇などであったと言われるが、そのフィルムは失われて久しく、かろうじて柴田常吉の撮影した『紅葉狩』が現存最古の日本映画となっている。
ところが、日本大学芸術学部映画学科が所蔵する映画関係資料の中から、浅野四郎らが撮影したフィルムのコマ(35㎜フィルムの一部)が発見された。
これらのフィルムのコマは、戦前の大日本映画協会による「映画法実施記念 映画文化展覧会」の開催1939(昭和14)年や、『キネマ旬報』による浅野四郎への聞き書き(1940年1月1日号所収)に際し発掘されたが、その後の行方は不明であった。日本大学芸術学部映画学科が所蔵するフィルムのコマは、日本映画技術協会(現日本映画テレビ技術協会)事務局長だった島崎清彦氏(1906-1990)旧蔵の映画関係資料に含まれていたものである。今回確認された計4点のフィルムのコマのうち『日本橋』はしばしば同様の画像が図版として文献に紹介されてきたためよく知られているが、いずれも不鮮明なものであり、高精細画像での公開はこれが初めてとなる。その他の3点は戦前の発掘当時以来の公開となる。
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